■旅行記 ”日本一周旅行” 26日目 : 砂浜の夢  (1996.09.02 Mon)

 そもそも眠りに就いたのが明け方だったので目を覚ましたのはお昼頃だったが、それも、ある人に話しかけられたからで、それが無ければ一体いつまで眠っているか分からないくらいだった。
 物音だか人の声に気づいて目を覚ますと、海水パンツ姿の裸の見知らぬ男性が二人、僕の方を見ていた。僕はまだぼうっとしていたし、それにそれ自体が夢のようだったので、仰向けに寝たまま、顔だけをそちらに向け、いい加減な声を出して、それを挨拶とした。僕は、まさに昨夜の宴の場であった小さな居間で寝ていたのだが、彼らはどうやら砂浜からここに上がりこんできたらしい。
 「こんないい天気なのに、昼まで寝ているなんて」と、早速威勢のいい声でからかわれた。その声の主はそのまま台所に向かい、冷蔵庫からビールらしきものを取り出し、そしてそれを持って「早く起きて海で泳いだら」と言って、砂浜の方へ出て行った。
 僕はその間、バイクでここまで来た、朝まで語り明かした、腰痛で遊べない、とだけ伝えたが、彼らが行ってしまった後は、やはり夢見心地で再び仰向けになって目を閉じた。
 「一体、どれだけの家族がいるのだろう」と心配になるくらいだったが、既に僕もその一部であるわけで、ここの暮らしのリズムというものに慣れてきたような、体感したような気がした。
 そんなことを思いつつ、それからしばらくは目を開けたり閉じたり、首だけ動かして辺りを見回したり、砂浜に打ち寄せる波の音だけを感じたりして、ゆっくりと流れる生暖かい時間に身を任せていた。
 砂浜に出られる窓は、僕が気づく前から既に開いていた。だから先ほどの二人も入ってこられたのだが、自分が横になっているところからでも、海と、そして目の前に大きくそびえる桜島が見える。また首を元に戻すと、テントの先端よりはるかにはるかに高い部屋の天井が見える。そうやって久々に大の字になってぼうっとしながら時間は過ぎていった。しかし時の流れはとてもゆっくりで、そしてそれは本当に幸せに満ちたひとときだった。そして波の音と浜風が入ってくるその居間で、僕はそのまま、また眠りに就いた。
 振り返って昨夜の話をしよう。
 昨夜はあれから、とにかく僕にとっては大騒ぎの夕食だった。とは言え僕は喉が痛くて声があまり出なかったが、それでも話さずにはいられないほどだった。もちろん気を遣ってのことでもあるが、とにかく話を聞きたい、話を聞いてもらいたいと、話題が尽きることはなかった。
 僕はお酒が入ったせいもあり、既に緊張も解けに解け、釣具屋での事、会長さんにここへ来いと言われたときの驚き、そして僕を置いて主人が出て行ってしまったときのさらなる驚き、そしてそこへ、今まさに目の前にいる妙なカップルの登場シーンの感想などを正直に話した。みんなにはそれが面白いらしく、「ここではそれは当然のこと、気にしなくていいんだよ!」と励まされ、恐縮気味に頷くと、またそれでみんなが笑っていた。
 食べたもの、飲んだもの、話した事、それを事細かに書くことはしないけれど、カップルもとにかく話題が尽きなくて僕も本当に喉が潰れるのではないかと思うほど笑っていた。彼らはちょっと疲れたのか、砂浜に出てそこで服を脱ぎ捨てそのまま夜の海に入って火照りを冷ましていた。僕はその間、旦那さんが自慢げに出してきたギターを庭で弾いていた。
 これは、旦那さんのものではない。これはまさしく、「あのカヌーイスト」のギターなのである。
 本の中にも時折出てくるギター。もちろん、どの旅行に持参したどのギターかは分からない。しかし年季の入ったギターで、間違いなくあの人のものなのである。僕はそのギターを、自分で抱えて、たどたどしくも自分で弾いているのである。
 風雨にさらされたこともあっただろうから、そんなに音のいいギターではなかったが、僕には十分と言うか、これ以上のものはなかった。抱きしめるようにギターを弾いた。
 夜空には大きな月が出ていて、桜島の大きな背中を映し出していたが、そんな夜に、紛れもなく、まさに最高の、至福のひとときを弾き語ったのであった。
 眠っている間も、もしかしたらそれを思い出しては、気味悪く微笑をたたえていたのかもしれない。それほどに、幸福という真綿の中で落ちるように眠っていたのは確かで、気づいたらもう、夕方になっていた。
 やがて旦那さんと奥さんが帰ってきた。働きに出ていた主人たちを僕が家で迎えるというのも本当に不思議な話だが、二人は本当にお構いなしだった。「その代わり、薄情みたいに思うかもしれないけどあまり気も使わないよ。それと茶碗だけは洗ってね。」ということだった。僕はもちろん喜んで茶碗を洗った。
 小さな日本とは言え、これは紛れもないカルチャーショックだった。北海道でも人のありがたみや温かみを感じることがあったけれど、この日本の両端で、こんな体験を得ることができるとは思いもしなかった。それは偶然だか、それとも地域の人柄、文化なのかもしれないが、知らなかった人の心、知らなかった日本を体験する事ができて、僕はただただ、幸せと優しさに感謝するばかりであった。

【走行距離】 本日:走行なし / 合計:6,522km
鹿児島県鹿児島市

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